眠るお宝を、もう一度
橋谷田商店が会津で挑む「価値の再編集」
株式会社橋谷田商店
はじめに、今の橋谷田商店を少しだけ紹介させてください。うちは今、三つの軸で動いています。祖父から受け継いだ日用品の卸。会津の食材を加工するフード事業。そして、行政と一緒に取り組む地域プロデュース。社員は5人ほどの小さな会社で、社員を大きく抱える時代ではないと思っていて、その分、思いついたものをゼロから形にすることに力を注いでいるんです。
橋谷田商店は、祖父が始めた商店でした。福島県喜多方市で、集落の小さな商店や病院に、洗剤やトイレットペーパーといった日用雑貨を卸す。暮らしに欠かせないものを届ける卸売業が、祖父の代からの本業でした。今は事務所になっているこの場所も、もとは祖母が店番をする、地域の人がふらりと立ち寄る小さな商店だったんです。
私がこの家業を継いで、今年でちょうど10年目になります。きっかけは、祖父が亡くなる前の日でした。「橋谷田商店を継ぐ」——そう約束して、私は喜多方に帰ってきたんです。父も一時期この仕事に関わっていましたが、時代の流れの中でなかなか収入にならず、別の道へ進みました。その後は母が祖父を支えながら、細々と続けてくれていた。私が受け取ったのは、そういう商店です。
正直に言えば、日用品の卸だけで食べていける時代ではありません。日用品なんて、今は大きな店やインターネットでいくらでも手に入りますから。個人商店への卸はほとんどなくなり、今は病院や企業への備品納入が中心で、小売りに近い形になりました。それでも、「もともとは問屋であり、御用聞きなんだ」という気持ちだけは、私の中で消えていません。だからこそ今も、その心のまま地域の方々と向き合っているのだと思います。
現場で鍛えた「形にする力」
家業に戻る前、私はまったく違う世界にいました。高校は工業高校だったのですが、そこで学んだのは「自分は黙々と作業する仕事には向いていない」ということ。もう自分は商売人でいくしかない——そう思ってファッション系の専門学校へ進み、全国展開するスニーカーショップに学生アルバイトから入って、そのまま社員として10年勤めたんです。
ちょうどお店が一気に増えていく時期でした。私は店舗開発の部署と組んで、東北から北関東まで新店の立ち上げに走り回り、売上が落ちた店舗に入っては立て直し、また次の店へ。そうやって東北中をぐるぐる回っていました。ある年の元日には、個人売上で全国一を取ったこともあります。
あの頃に身につけたもの——人と向き合う力、その場で販促物を作り上げる「形にする力」は、今の仕事に驚くほど生きています。じつは弊社の商品パッケージは、すべて私がデザインしているんです。現場での急ごしらえの経験が、まさかこんな形でつながってくるとは、当時は思ってもみませんでした。
外から戻ったからこそ、見えるものがある
私が事業のテーマに掲げているのは、「価値の再編集」と「未利用資源の活用」の二つです。会津には、かつては価値があったのに忘れられてしまったもの、独自性があるのに気づかれていないものが、お宝のように眠っている。一度は外に出て、Uターンで戻ってきた私だからこそ、それを違う角度から見て、もう一度編集し直せる。そこが、いちばんの強みだと思っています。
たとえば日用品の卸では、会津でリサイクル業を営む会社と組んで、地域の紙を集め、トイレットペーパーに作り変える取り組みを進めています。ものが地域の中でぐるりと循環していく仕組みです。フード事業で出会った方に消耗品を、卸のお客様に食品を——気づけば、事業同士でお客様のキャッチボールが自然と生まれるようになりました。
捨てられていた柿から、天然染料を
今、いちばん夢中になって育てているのが、柿渋のプロジェクトです。会津は「身知らず柿」という献上柿の産地で、私も大好きな、本当に美味しい柿なんです。ところが会津を見渡すと、高齢化で収穫されなくなった柿の木や、もう誰の持ち物かもわからない木が、そこかしこにある。この眠ったままの資源を、なんとかできないか。ずっと、そう思っていました。
柿はそのまま加工するのが難しい果物です。どうしたものかと考えるうちに、たどり着いたのが「柿渋」でした。柿渋は、昔は和傘の撥水や漆器の下地に使われてきた、歴史ある素材です。会津には、もともと柿渋の文化がしっかり根づいていた。染料にも、建築塗料にも、石鹸にもなる。化学塗料でアレルギーが出てしまう子どもたちのことを思っても、天然の柿渋には大きな可能性があると感じたんです。
このプロジェクトは、たくさんのご縁が不思議なほど重なって動き出しました。県の研究機関、県外の大学で染色を研究する先生、県内で染物を研究する研究室、そして会津木綿を織る地元の織物会社。去年からは、実際に柿渋づくりを始めています。柿渋は発酵させるので、それはもう、ものすごく臭う。ところが県の研究機関が無臭化技術を見つけてくれて、しかもそれに使う素材が喜多方で採れる。こんなふうに、点と点がどんどんつながっていくんです。
考えてみれば、あちこちに顔を出しては「こんなことをやりたい」と話して回る——これも、祖父から受け継いだ御用聞きの心なのかもしれません。人に会い、話し、また別の誰かへつないでもらう。そうやって少しずつ広がってきた縁が、柿渋の先にも、次から次へと新しい取り組みを連れてきてくれるんです。
夏から秋の収穫の時期には、地域の年配の方々にも一緒に手を動かしてもらいたい。眠っていた柿の木が、また誰かの出番や張り合いを生む。そうやって、消えかけていた会津の柿文化を、地域みんなの手でもう一度受け継いでいく。そんな思いで、この取り組みを進めています。

コロナ禍が生んだ、地元のための加工場
私が何より大事にしているのは、物事の本質です。目先の損得よりも、そのものが本来持っている価値をじっくり見つめながら、ものづくりを進めたい。本物をつくれば、必ず見てくれる人がいる。そう信じているからこそ、まずは文献で丁寧に裏付けを取り、身の丈に合った形で小さく試してみる。研究のようなやり方で、一つひとつ確かめながら進めています。
フード事業を始めたのも、コロナ禍がきっかけでした。もともと私は、人が集まる飲食店をやりたかった。人が集まる場所には、物も事柄も自然と集まってくると思っていたからです。シェフの仲間まで引き入れたのに、コロナで断念せざるを得なくなりました。ちょうどその頃、農家さんが飲食店に卸せなくなった作物を大量に抱えて困っていて。これを保存のきく加工品にできないか、と考えたんです。ところが、小ロットで作れる加工場がどこにもない。ないのなら、自分たちで作ろう、と。
「地元産と謳っているのに、製造は県外」——そういう商品を見るたびに、それは違うだろう、と感じていました。だからこそ、地元で雇用を生み、地元の人が地元のものを加工して発信する。そういう加工場にしたかったんです。今ではセントラルキッチンとして、人手の足りない地域の飲食店の仕込みを引き受けることもあります。飲食店をやりたかったあの思いが、めぐりめぐって、街の賑わいづくりにつながっている。そんな手応えを感じています。
「恩は、送るもの」——コンソーシアムに込めて
コンソーシアムに参加することになったのは、あるウェブ媒体の取材がきっかけでした。その取材から生まれたご縁で、お声がけをいただいたんです。
私には、いつまでも心に残っている言葉があります。食品加工の事業を立ち上げるとき、ある先輩経営者が、あれこれと力を貸してくれました。ありがたくて「この恩を返したい」と伝えたら、その先輩はこう言ったんです。「恩は返すものじゃない、送るものだ。先輩から受けた恩は、今度はお前が下の子たちに送ってやれ」と。
この「恩送り」という言葉が、私はコンソーシアムの場にそのまま重なると思っています。私にできることは、そう大きくないかもしれません。それでも、地域の若い人が「何かやりたい」と一歩踏み出したとき、私が力になれる存在でいたい。そして、思いやりのある仲間が自然と集まってくる——そんなフィールドを、会津に、自分たちの手で築けたら。小さなコミュニティだからこそ、お互いを思いやれる仲間が集う場所にしたいんです。
もちろん、悩みは尽きません。人を採用し、育て、つくり手にしかわからない工程をどう受け継いでいくか。商品開発は、味も、保存も、パッケージも、流通も、利益も、すべてを同時に成立させないといけない。私はよく「総合格闘技のようだ」と言っています。形になるまでには時間がかかり、成果が返ってくるのもゆっくりです。営業も、一人ではなかなか回りきれない。まだまだ、これからです。
10年やってきた私が、もし10年前の自分に会えたら、きっとこう言うでしょうね。「もっと頑張れ。10年で結果なんて出ない。20年やってみろ」と。成功なんて、まだ全然していません。それでも、信じた道を突き進んできたからこそ、今のご縁とものづくりがある。だからこれからも、本質を見つめながら、会津に眠るお宝を、一つずつ再編集し続けていきます。
